等間隔にしつらえられた行灯の明かりを頼りに詰所の戸を閉めた。
取手にかけた指先をそのまま 下にある鍵穴へと伸ばして場所を確かめると、もう片方の手に持った鍵を差し込む。
かちり、と 鍵と錠が噛み合う音を聞いてから、は三番隊の隊員詰所を後にした。

正門から外に出て少し歩くと、松明の光も届かない暗闇が目の前に広がり、彼女は思わず立ち止まって空を仰いだ。
見上げた真夜中の空には月どころか、星ひとつなく、ただ 果てしない墨染色が続いている。


「思ったより遅くなっちゃったな」


呟きと同時に吐き出された息が白く広がったのを見て、すかさず小さく身震いをした。
思い出したように微かに震え始めた身体を両手で抱き、肘をさすりながら 今度はあからさまな溜息を白く吐き出す。

本来なら終業時間ぴったりに家路につくことが許されている彼女が 何故こんな深夜になるまで隊舎にいたかと言えば、それは全て とことん不真面目な隊長がひとり居るからに他ならない。
が所属する三番隊の隊長である市丸ギンは、その気になれば書類処理にしても何にしても、非常に優秀な人物だ。
ただ、まず楽をする事を優先させる為に、サボリ癖がついてしまっているので 最終的な尻拭いが部下達に回ってくる事がほとんどだった。
それでも、いつもなら副隊長の吉良がこなしてくれるのだが、今日に限って彼は会議に出席してしまっていた。
そうなれば必然的に三席の彼女に仕事が回ってきて、こんなに遅くなってしまったのだ。


「…うう、寒い。明日隊長に会ったら絶対に文句言ってやる」


ゆっくりと肘や肩をさすって歩きながら、低い声で独り言を言う。
その度に唇端から漏れる白い息も 目の前にそびえる暗闇には勝てないようで、広がる前に黒く溶けていく。
今夜は冷える。そして何より、とても暗い。

覚束ない足元を見下ろし“灯りを借りてくれば良かった”という、彼女の脳裏のぼやきが聞こえたのか、向こうから ぽつん と淡い光が近付いてきた。


「ああ、どないしたん。こんな遅くに」
「…市丸隊長」


片手に掲げた灯りで仄かに照らし出された人物が、自隊の隊長であったことに驚いた様子のへと 微笑んで見せながら、彼は「灯りも持たへんと、危なっかしいなぁ」などと 浅く肩を竦めて見せた。
やはり冷えるのだろうか、彼の吐く息も白い。


「こない遅くまで残って仕事してたん?ご苦労なことやね」


そう言いながら側まで寄ってきた市丸の手に持った灯りが、さり気なく彼女の足元まで照らしてくれたので、視界が一気に開ける。
濃い暗闇のせいで周りが照らされるまで気付かなかったが、思った以上に近い距離に佇む彼に 少しばかり気後れしつつ、それでもは不満気に唇を尖らせた。


「誰のせいだと思ってるんですか…っ」


先ほどの独り言の時よりも一層低まった声を出し、上目で睨みつける。
しかし、当の市丸本人は全くと言って良いほど凄みのない彼女のガンなど気にした風もなく、ゆるりと首を傾げた。


「さぁ?…それやったら今日はイヅルが何や けったいな会議があるとかで、一日中おらへんかったようやから イヅルのせいになるんやろか、」


いけしゃあしゃあと言ってみせながら、彼はもう一度 浅く肩を竦めた。
その肩の動きに合わせて 辺りを淡く照らす灯りが揺れる。
すかさず反論しようと口を開いたに軽薄な一瞥をくれて黙らせてから「そんな事よか、灯りも無しに歩き回るのはあかんよ」と、殊更に穏やかな声で続ける。

普段から慣れているとは言え、市丸のあまりに飄々とした態度に彼女は咄嗟に何も言えなくなってしまった。
ぼんやりとした脳裏で 何と言って諌めようかと必死に考えを巡らせているの事を知ってか知らずか、彼は緩やかな所作で 彼女の腕へと指先を伸ばした。


「送ろか、」


やはり穏やかな声で言い 華奢な手首を、声と同じように穏やかな力で引き寄せる。
そのまま手を引いて歩き出す市丸に導かれるまま、数歩進んだ彼女は慌てて立ち止まり 微かな抵抗を示した。
何よりも 彼の手が思った以上に暖かくて、その事実が彼女を一層慌てさせる。


「…話を逸らさないで下さいっ」


市丸は 切羽詰った声を出すを振り返り、その瞳が少しだけ潤んでいる事、その頬が少しだけ染まっている事を確認してから、満足気に微笑んだ。
手首同様、華奢な彼女の指を絡めるように 一瞬だけ包み込み 離す。



「冷たい手やね」



最後の駄目押しのように話を逸らされてしまう。
もうこうなってしまったら、これ以上 彼女にはどうしようもない。

再び 穏やかな力で彼女の手を引き寄せる彼の指先が、掌が、温かいのだから どうしようもない。


観念して後について歩きながら、彼の空いた方の手に握られた灯りが作り出す 仄かに明るく揺れる視界を見つめた。
暫くそうしてから 何故か無性に温かい彼の指に、自身のそれを絡めて 控え目に握る。
少し前を歩く背中が、愉快そうに くすり と、鼻を鳴らして笑った。


行く先には 果てしない墨染の世界が続いているだけだ。






墨 染 の 蜜 夜 行


( 20090113 | coma | write for 君の鳴く場所 )