隊員達が全員出払ってしまった執務室で、は一人で書類を片付けていた。
窓の外は見事な晴天で、遠く空の端に入道雲が盛り上がっているのが見える。
刺すような強い日差しが窓から差し込み、は目を眇めた。

「暑い…」

じっとりと夏の暑さがまとわりつく。
うっすらとにじむ汗を手拭いで拭いながら、は冷暖房完備の二番隊がうらやましい、と心底思った。
ここ、九番隊は前隊長の方針もあって、冷房機器はあってもあまり使わない。

「考えてみれば…東仙隊長はもういないんだから、別に冷房つけたってかまわないのにね」

今は居ない上司の方針に従う必要はないのに、とは自嘲気味に笑った。
わかっていても、まだ心のどこかで整理が出来ていない。
その証拠に、「東仙」と呼び捨にすることができない。
かといって、「隊長」という称号をつけることへのわだかまりは、もちろんある。
裏切りを自分の中で消化しきれていないのだ。

思いがけない事件が起きて、隊長不在となってしまった九番隊。
まさかの裏切りに隊員達が受けた衝撃は計り知れない。
副隊長の檜佐木が隊長代行として隊員達をまとめたおかげで、今はようやく動揺が収まりつつある。

「檜佐木副隊長はすごいな…」

ぽつりと呟くと、は筆を止め、主のいない副隊長席を見つめた。
今、檜佐木は部下を引き連れて虚退治へと出向いている。

もし、檜佐木がいなかったら。
次に先頭に立たなければならないのは、三席である自分だ。
正式に辞令をもらったわけではないが、必然的には副隊長代行のような立場になっている。

三席は副隊長の次席ではあるけれど、その力の差は歴然だった。
今の状況は自分の力以上の役割を求められているようで、には正直なところきつかった。

(ああ、でも一角さんなら…)

ふと、十一番隊のことを思い浮かべる。
自分と同じ三席の一角は、職務にあまり忠実とは言い難い草鹿副隊長のかわりに、よく職務を代行している。
決して気負うことなく、さも当たり前のように。
最も、とも思う。
一角の実力は既に隊長格と言ってもよく、三席に収まっているのが不思議なくらいだ。

(比べる相手を間違ってるわ…)

肩にかかった責任の重さをひしひしと感じる。
役目は全うしたいし、するつもりだけれど。
は予想もしなかった現実に、思わず深いため息を漏らした。

「何をため息なんざ、吐いてンだよ」

なんの前触れもなく聞こえた声に驚いて、ハッと顔を上げれば、開けっ放しの窓の外に一角が立っていた。

「一角さん…!」

思いがけない人物の姿に驚き、は立ち上がって窓辺に近づいた。

「どうしたんですか?」
「おう、書類を届けにな」
「いきなり声が降ってきたから、びっくりしましたよ」
「そうか? 驚かすつもりはなかったんだけどよ。すまねぇな」

はそう言って笑う一角の視線と、自分の視線の高さが同じことに気がつく。
一角とは頭一つ以上の身長差があるのだが、一角が屋外にいるため同じ高さに並んでいるのだ。

(うわ…どうしよ)

窓枠越しに、一角をとても近く感じる。
書類を受け取りながら、慣れない視界に戸惑いは視線を泳がせた。

九番隊と十一番隊は隊の方針や隊風の違いもあって、隊どうしとしてはあまり仲が良いわけではない。
だが、一角とは気さくに話せる間柄だ。
は同じ三席として顔を会わす機会が重なるに連れ、一角の性格を知り…そして、密かに慕っている。

(絶対に内緒だけどね)

この気持ちを知っているのは、自分だけ。
誰にも打ち明けてはいない。
一角にとって、自分は同じ三席仲間でしかないのだから。
何度も自分に言い聞かせているのに、そう思うと、わかっているはずなのに胸が痛い。

「どうした?」

怪訝そうな一角の声に、ハッと顔を上げれば、不意に大きな手が伸びてきた。

「なんか、元気ねぇな? 赤くなったりして…熱でもあるのか?」
「え…?」

グイっと引き寄せられたかと思うと、一角はの額に自分の額をくっつけた。
思わぬ密着に、は一気に顔が赤くなるのを自覚した。

「だ、大丈夫です!」
「そうか? なんか熱いような気がするが…」

このまま口づけができてしまいそうな至近距離に、の鼓動はこの上なく高鳴る。

「そ、それは…」

手にした書類を落としそうになって、は慌てて身を離した。

(誰だって、好きな人にそんなことをされれば、血液が沸騰するよ!)

嬉しさと驚きに、そう叫びたいのを堪える。

「きっと、一角さんが熱いんですよ。太陽の熱照射を浴びてるんですから」
「あァ?」

途端に一角の機嫌が悪くなる。

「オメー、それは何が言いたい?」
「べ、別に深い意味なんかないですよ! この炎天下に外にいるから、って言いたかっただけです! そうだ、冷たいお茶くらい出しますから、上がっていきませんか?」
「……ま、そういうことにしといてやるか」

一角はフン、と鼻を鳴らして、室内を覗き込んだ。

「えらく閑散としてるな。他の奴らは何処に行ったんだよ?」
「檜佐木副隊長は何人かを連れて討伐に…後は、瀞霊廷通信の編集作業に入ってます。私は書類チェックで残ってるんです」
「それじゃ、邪魔になるな」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「そうか…じゃあ」

と、言いかけて、一角は少し思案する素振りを見せた。

「やっぱり遠慮するわ」
「え…」
「俺もこれから鍛錬があるからよ」
「そうですか…」

そう言われれば、無理に引き留めることはできない。
ちょっと残念だな、と思っていると、「おい、」と呼ばれた。

「はい?」
「その書類、時間かかりそうか?」
「いえ。あと二刻もあれば終わりそうですが…」
「だったら、定時に上がれるな? 今晩、メシでも一緒にどうだ?」

思いがけない誘いに驚きつつ、は二つ返事で答えた。

「喜んで」
「そうか。だったらおめぇ、書類さっさと片付けろよ? っていうか、終わらなくても定時で上がってちゃんと来いよ?」
「定時までに終わらせますってば!」

がムキになって告げれば、一角は満足そうに笑った。

「おう、その意気だ。じゃあ、夕方な。共用門のトコで待ってるからよ」
「はい」

去っていく後ろ姿を見送りながら、は、「よしっ」と気合いを入れた。







終業時刻の半刻前になって、ようやく檜佐木が帰ってきた。
時計の針を睨みながら気を揉んでいたは、檜佐木が一息つく間もなく書き上げた書類を勢いよく提出した。

「副隊長! 今日は定時で上がらせてもらいます!」
「お、おう…」 

の剣幕に、檜佐木はたじろぎながら頷く。

「それは別にかまわねぇが…。珍しいな。なんかあるのか?」

定時などあってないような日々だ。
檜佐木の疑問は至極最もだったが、は曖昧に頷いた。

「…ええ、まあ」

一角が食事に誘ってくれた。
他の人を交えて飲みに行ったりすることはあったけれど、こんなことは初めてだ。
は言葉を濁しつつ、キッパリと答えた。

「大切な用事があるんです」
「ふぅん…」

檜佐木は机に頬杖をついて、を見上げた。

「なんだ。デートか」
「…!」

思わずビクリと肩を動かせば、檜佐木はニヤリと笑って一人頷いた。

「そうか、そうか。お前にも春が来たか〜」
「…お言葉ですが、今は真夏ですよ。春はとっくに過ぎてます」

は気まずさと恥ずかしさから視線を反らした。

「それに…そんなんじゃないですから」
「ま、でも、それに近いものではあるんだろ?」

チラッと檜佐木に視線を戻せば、予想に反して優しい言葉が返ってきた。

「いいんじゃねーの? 楽しんでこいよ。…にはさ、負担かけてるし。俺としてはお前には幸せになってほしいからよ」
「副隊長…?」

からかうような素振りは全くなかった。
自分で言っていて照れくさくなってきたのか、檜佐木は椅子を回転させて背を向けた。

「今日はもう終え」

が思いがけない言葉に何も言えずにいると、檜佐木は追い払うように手を動かした。

「もう定時だ。遅れるぞ?」
「…はい。では、お先に失礼します!」

嬉しさを堪えながら一礼し執務室を出ようとするの背に、声が掛けられた。

!」
「はい?」

が振り返れば、檜佐木は背を向けたまま告げた。

「簪の一つくらい、つけて行けよ?」

は一瞬目を丸くして、それから大きく頷いた。

「了解しました」








「うわ〜、マズイ!」

は慌てて自室を飛び出した。
何を着ていくか悩んでしまって、仕度に思わぬ時間がかかってしまった。
一角は待っていてくれるだろうか。
不安になりながら共用門まで走っていくと、柱にもたれた浴衣姿の一角が見えた。

「ご、ごめんなさい!」

息を切らして飛び込むように近づけば、一角は怒った様子もなく体を起こした。

「おう、来たか」
「お待たせしてごめんなさい」
「いや、たいして待ってねぇよ。じゃあ、行くか」

一角はチラっとの姿に視線を流して、歩き出した。

「そういや、今日は夜市が出るらしいぜ。まだ時間もあるし、寄ってみるか?」
「はいっ」

夕方ということもあって、街はにぎわっていた。
人混みの中を一角とは並んで歩いていく。

夜市と言っても、夏の日は長い。
夜の帳が下りるには今しばらくかかりそうだった。
暑さも日中よりも幾分マシだが、まだ衰えてはいない。

「毎日暑いですねぇ」
「そうだな。ウチは冷房施設がねーからよ、暑苦しくてたまんねーぜ」
「うちはあっても冷房つけないからなぁ…」
「それって、もったいねぇな」

他愛のない世間話をしつつ、道ばたの露店を眺めながら歩く。
大道から外れたところまで来ると、人々の喧騒に代わって木々に止まった蝉の声が周囲を支配し始めていた。

「すごい蝉の声」

降り注いでくるような鳴き声に、は頭上の木々を見上げた。
まもなく夜が来るというのに、一向に休む様子もない。

「蝉は命が短けぇからな。一生懸命なんだろうよ」
「そうか…そうですね」

川沿いに並ぶ柳の木からも蝉の声が響く。
少しひんやりとする風を感じながら歩いていると、ふと、道の外れにある装身具屋が目に入った。
店先に様々な意匠の簪や櫛が並べられている。

(あ、そういえば…副隊長に簪くらい挿せって言われてたのに…)

結局バタバタしたまま簪を選んで挿す余裕もなくて、軽く髪をまとめることしかできなかった。

(前もってわかっていれば…)

しっかりと服を選んで、小物も合わせることができたのに、とは思う。
まさか、こんな風に二人で街を歩けるとは思っていなかったので、余計に無念さが募る。
内心ため息をつきながら見ていると、紅い石のついた簪が目に留まった。

(きれいな色…一角さんの目尻みたい)

思わず見とれていると、不意に隣から手が伸びてきた。

「親父、これをくれ」

一角はが見とれた簪を手に取ると、店主を呼んだ。
思わぬ行動にが唖然としている間に、一角は代金の支払いを済ます。

「ああ、包まなくていい。すぐ使うからよ」

簪を包もうとする店主を制し、一角はそれを受け取ると、スッとの髪に挿した。

「え…」

は驚いて目を見張った。
ぽかんと一角を見つめれば、笑みと共に強い視線が返ってくる。

「…よく似合ってるぜ」

それだけ言うと、一角は踵を返して店を出た。
その時になって初めて、は一角が自分に簪を買ってくれたのだということを理解できた。

(一角さんが…私に?)

驚きと嬉しさで、頭の中は大混乱だった。

(どどど、どうしよう…)

嬉しすぎておかしくなりそうだ。
パニックになりかけてが動けずにいると、数歩進んだ一角が振り返った。

「何やってんだ? ? 行くぞ」
「あ…待って」

は慌てて後を追った。

「あの…一角さん」
「なんだ」

振り返らずに答える一角の頬が、微かに赤いことに気がつく。
きっと今、自分も真っ赤になっているんだろうな、とは思わず笑みをこぼした。

「ありがとうございます」
「…ああ。たいしたモンじゃねぇ。気にするな」
「ううん。ずっと、大切にします」

一角は軽く振り返ってを見ると、ぶっきらぼうに答えた。

「…気に入ったか?」
「ええ、とっても」
「そうか…なら、いい」

そう言うと、一角は再び前を向いてしまう。
も何を話したらいいのかわからなくて、黙って従った。

周囲は人影もまばらで、蝉の声だけが響いている。
日もだいぶ沈んで薄茜の空が広がり、二人の影が地面に伸びた。

「…ねえ、一角さん」

チラリと振り返って、一角は無言で先を促す。

「一角さんは副隊長になりたい、とか思わないんですか?」

の問いに、一角は一瞬動きを止めた。
何度か瞬きをして、今度はゆっくりと体ごとを振り返る。

「なんだ、。お前は副隊長になりたいのか?」
「いいえ、そんな、とんでもない」

は慌てて否定した。

「私にはとてもじゃないですが、そんな力はないですよ。…でも、一角さんは実力があるのに。昇任の話を断ってるって聞いて…本当ですか?」
「ああ」

一角は思い切り頷いた。

「俺は更木隊長のもとを離れるつもりはねぇからな。今の状態で文句はねぇよ」
「…そうですか。更木隊長を慕っていらっしゃるんですね」
「おう。俺はあの人以外の下に付く気はねぇ」

迷いなくキッパリと言う姿を、そう思える隊長を戴いていることをうらやましいと思った。
自分の信頼していた上司は、最悪の形で姿を消してしまったのだから。

「…いいなぁ」

思わず口について出てしまった。
言ってからしまった、と思ったがもう遅い。
一角は一瞬目を見開いて、小さく吐息を漏らすとガシガシと頭を掻いた。

「…すまねぇ」
「いえ…」

は頭を振った。
一角が悪いわけではない。

「ま、けどよ…」

もう一度吐息を漏らして、一角は続けた。

「過ぎちまったことは、今更しょうがねぇ。戦いは始まっちまったんだからよ」

やるしかねぇんだ、という呟きが胸に突き刺さる。
今や東仙隊長は敵なんだ、と改めて思い知らされる。

「…はい」

は唇を噛みしめて俯いた。
自分はまだ覚悟ができていない。わかっているけれど、まだためらいがある。

「お前はよくやってるよ」
「え…」

が顔を上げると、一角は腕組みをして口元を緩めた。

「檜佐木を支えて、しっかり隊をまとめてるじゃねぇか」
「そんな…私なんかまだまだで…。一角さんみたいにはいかなくて」
「そんなことねぇよ」

真剣な瞳に見つめられ、は視線を外すことができなかった。

「頑張ってる。けど、ちょいと背負い込みすぎてるな…」

大きな逞しい手が伸びてきて、そっとを抱き寄せた。
は自分の置かれた状況が理解できなくて、一角の腕の中で硬直していた。
蝉の声がやたらと耳に響いて、自分の鼓動の音かどうかわからなくなる。

「たまにはこんな風に…息抜きもいいだろ? いつでも付き合ってやるぜ」

一角の声が頭上から聞こえる。
自分を抱きしめてくれる腕の強さも、肌に感じる温もりも何もかもが嬉しくて。
今日の一角は不意打ちすぎる、と思った。

「……ほんとに? そんなこと言われたら、私、甘えちゃいますよ?」
「ああ、いいぜ」

一角は笑って頷く。
「そりゃ、望むところだ」という小さな呟きが聞こえ、は思わず一角の袂を握りしめた。

「なんか…夢みたい」
「ばーか。現実だっつーの」

の頭をポンポンと叩いて、一角はを解放した。

「現に腹が減ってしょうがねぇ」

照れくさそうにそっぽを向き、顎で促す。

「ほら、行くぞ……
「……はいっ」

再び、一角とは並んで歩き出す。

蝉の声が響く中、二人の影が一つに重なった。









2009.3.13
企画サイト「君の鳴く場所」様 提出作品
お題配布元:天球映写機 様