「人魚姫って知っている?」 ふたりきりの執務室。静かな夜だった。けれど、どこか悲しい夜だった。雨が降っているわけでも曇っているわけでも、月がきれいなわけでも 満天の星空ってわけでもない。けれど、どこか悲しい夜だった。そんななかで、はいきなり聞いてきた。 嵐の日に船から落ちた王子を助けて、恋に落ちた姫だろ。すべてを捨てて王子を追いかけた話だろう。俺は、一応。と答えた。筆は止めなかった。が唐突に言葉を出すのはよくあることなのだ。それにいちいち付き合っていたらすでにたまっている書類は更に進まないのだ。それに今日はなんだか悲しい夜だから。 は何処からか持ってきたいすを俺の座っているいすの横に置いている。そのいすに三角座りをしてうつむきながらぼそぼそと話し始めた。 「人魚姫はきっと、王子様が好きなだけじゃなかったんだろうね」 「へ?」 いったい今度は何に影響を受けたのだろう。は影響を受けやすい生物なのだ。影響を受けやすい、というか感受性が強い。見たもの聞いたもの触れたもの感じたものすべてから何かを感じてそれに答えを出そうとする。ぼーっとしているように見えて実は深く考えている。悶々と自問自答を繰り返している。それを先ほども言ったように唐突に俺に伝えてくる。俺は、の話が嫌いじゃないしどちらかといえばすきだ。だから、仕事の邪魔になっても聞いている。けれど、筆はとめない。書類にすーっと目を通して確認のしるしをつけていく。変だと思うところは訂正の知らせを書く。はいつものようにぽそり、ぽそりと話し始めた。ぼんやりとも今日を悲しい夜と感じ取っているのだろうかと思った。 「人魚姫はずっとずっと飽き飽きしていたの。あと何百年か続くいのちに。その間、ずっとつまらない海の中で恵まれた人生を送ることを。すでに先の見据えている自分に。ずっと陸にあこがれていたの。だれも知らない、だれもわからない、だれも行った事のない。そんな世界にあこがれていたの。けれど、陸に行くことは誰もが止めた。 そんなとき、王子様をみたのよ。初めて陸の世界のものたくさん見て、それで更にあこがれちゃったのよ。そんな興奮状態で王子様と近くで触れ合ったのよ。だから 好きになっちゃったのよ。それを利用しただけ。」 だから、結局なんなんだ?お前はどう思ったのだ?そう感じたけれど、俺は聞かないでおくことにした。の話が唐突に始まって唐突に終わることなんてよくあることで、後日続きを話し始めることもある。けれど、終わってしまって彼女のなかでどんどんと埋まっていくこともある。結局彼女が思ったことを話す場所が俺なだけなのだ。質問なんて、するべきではない。 「考えすぎ、だろ」 けれど口を出したのはやっぱり今日が悲しい夜だからなんだとおもう。うん、あたしもそう思う。 は呟いた。そしてまた口を開く。ぽそ ぽそ とひとつひとつの言葉を落とすようにけれどなめらかでゆるやかな話し方。 「ねえ、もしも今 声がなくなったら そうしたらどうする?気持ちも伝えられないまま雛森さんが自分以外の男の人と結婚しちゃったらどうする?」 新しいパターンだ。俺に質問をするパターン。不思議だ、今日は俺もも少しおかしいみたいだ。 「逆でも良いよ。かわいくても 自分の好きな人に似ていても 言葉が伝わらないの。それでもあなたは雛森さんと結婚できる?」 「俺と、雛森はそんな関係じゃねえよ」 うん、知っている。と、は呟いた。ああ、俺は失敗してしまった。だって、がほしかった答えはこんな答えじゃない。は雛森をただ例として出しただけ。けれど、彼女が本当に俺に聞きたかったことは俺には答えが出せない気がした。まだ、伝わらないのはわかるだろう。俺はきっと伝わらない奴とは結婚できないだろう。『話せない』ではない『伝わらない』だ。俺には、自信がないからだ。しっかりと伝えてもらわないでわかりきれるほどできた人間じゃないからだ。 けれど、『無理だと思う』なんていえなかった。だって、本音はいつだって汚くて嫌われるからだ。 「…王子様が一番リアルが見えていたんだよ」 は話を変えてしまった。視線を横に向ける。は相変わらず俺の隣のいすで三角座りをしていた。彼女は窓の外を見ていた。どこか遠くを見るように窓の外を見ていた。悲しい夜の 寂しい空をみていた。その上に、なぜか泣きそうだった。理解不能、自分勝手、傍若無人、俺はが人魚姫みたいで怖い。いきなり何かを求めて大切なものとかを捨ててまで それを取りに行って 置いてかれた人間のことなんて気にしないで それで帰ってこなくなりそうだ。 「もしも、王子様が消えた人魚姫に対して恋しているのだと気づいたり 錯覚したりしても、知らぬところで勝手に命かけられていたとしても、それに気がついたとしても、きっと王子様は気づかないふりをするんだ。きっと、この王子様はそういう人だよ」 なんでだ?そう質問をした。つい、質問をしてしまった。けれど、は不機嫌そうな顔をしなかった。ただ、外を眺めていた。何処を見ているかわからなかったけれど、ただ外をみた。気がつけば俺の筆は止まっていた。ちらちらと見るだけだった視線は今ではじっとを見つめていた。そう、これはいつものパターンなのだ。気がつけばいつだってのペースなのだ。 「だって王子様は現実主義者よ。だから、夢のような女の人を追いかけることをやめて、隣国のお姫様と結婚したの。夢なんて見ていたのは人魚姫だけだったのよ」 「悲しいな」 「そうだね、でも もしも もし少しでも 王子様が消えてしまった人魚姫を気にし続ければ探そうと少しでも思ったのなら 人魚姫は報われるね」 「なんだ それ」 けれど、そこで彼女の話は終わった。ゆっくりと外を向いていた顔がこちらに向かさせられる。深い、深い、瞳が俺を捕らえる。そして、あの口調で俺に伝える。伝えて逃げるようにするりと消えてしまう。 「日番谷くん、雛森さんだけをみてちゃだめだよ。あたしを忘れちゃダメだよ。」 それと、あの話はどんな関係があるんだ?聞くのを途中でやめた。のどのあたりまで来たのに詰まったんだ。笑えなかった。ただ、うつむいた。 「じゃあ、は消えるなよ」 俺からすれば、お前のほうがよっぽど心配だ。俺の世界からが消えることなんてありえないだろう。こんなにも印象強い奴、消えない。けれど、 はどうだろう。はほしいものができたら、本当に消えると思う。死神という地位 信頼 仲間 俺 なにもかも捨てて 全部見えなくなったフリをして、それで消えちゃいそうだ。そう、こんな悲しい夜に消えてしまいそうだ。 「人魚姫は最後は天に召されたのよ」 だから、なんなのだ。憧れか?うらやましいのか? 「、俺はお前を選ぶよ。伝わらなくなっても がんばって 感じ取るよ」 言葉足らずすぎたかもしれないと思ったがまあ、よしとしよう。だって、笑ってくれたから。
泡になんてならないで それ以前に、 俺たちを捨てないで word by 天球映写機 //dear.君の鳴く場所