いつからだろう。赤く染まった空を見ると、胸がしめつけられるようになったのは。
何度目だろう。息がつけなくなるほど、泣きたくなるほど切ない気持ちになるのは。 「おーい、!」 書類を全部片づけ、さて巡回の準備をと廊下を歩いていると、辺りを憚らない大声で名前を呼ばれた。何事かと振り返ったら、向こうから恋次が走ってくる。 「恋次」 「、今日暇か? すっげー旨いあんみつの店見つけたんだけどよ、一緒にいかねぇか」 何だ、妙に忙しないと思ったら甘味処の話か。恋次って本当に甘いもの好きよね、と苦笑しながら、あたしは頷いた。 「そうね、巡回の後でいいなら行けるわよ」 「おう。じゃあよ、巡回終わったら十一番隊(うち)の隊舎にこいよ、そっから近いんだ。本気で旨いから楽しみにしてろよ〜一口食えば疲れも吹っ飛ぶ代物だからな」 「何それ、おっさんぽいコメントねぇ」 ほっとけ、と恋次が叩く真似をするのを避けて、あたしは笑ってしまった。それにつられたように顔をゆるめた恋次は、だけど次の瞬間、不意に硬直する。 「? ……あ」 その視線を追って、あたしは小さく呟く。 中庭を挟んで向こうの廊下に、朽木隊長と妹君のルキアちゃんが、連れだって歩いていた。彼らと行き会った死神達は皆一様に道を開け、敬うように、おそれるように頭を下げていく。 (……相変わらず凄いな、隊長は) 離れていても、まるですぐそばまで迫ってきているような大きな霊圧の存在に、肌が粟立つ。自分の上司とはいえ、あたしもまた萎縮して肩をすぼめてしまった。 そしてちらりと横を見上げると、恋次は唇を引き結び、じっと二人を見ている。いや正確には、俯いて小さな影のようになって隊長につき従う、ルキアちゃんを見ている。 「……誘えば?」 「あ?」 ぽつ、と口からこぼれた呟きは、恋次の耳に届いてしまう。我に返ってこっちに顔を戻した恋次から目をそらして、今度はもう少しはっきり口にする。 「ルキアちゃん、誘ってみれば」 「……何言ってんだ、」 一瞬目を見開いた後、恋次はそれをごまかすように笑う。 「あいつだって忙しいんだ。甘味食いにいくほど、暇じゃねぇだろ」 「そんなの聞かなきゃ分からないじゃない。来られるかもしれないでしょ?」 「いいんだよ。大体、普段朽木隊長と一緒にうまいもんばっか食ってんだ。俺らの行く安っぽい店なんざ、もう口に合わなくなってるさ」 ぎゅ、と自分の眉間に力が入るのが分かった。恋次は笑ってる、笑ってるけどそれは引きつっていて、卑屈なようにも見える。そんな恋次に、ついイライラして、 「何よ、そんな言い方する事ないじゃない。ルキアちゃんとあんなに仲良かったのに」 「別にいいだろ、そんなの」 話を打ち切ろうとする恋次の腕をつかんで、前に回り込む。 「良くない。恋次おかしいわよ、ルキアちゃんの事になると、どうしてそんなにかたくななの。こんなの、恋次らしくないよ」 「……お前の気のせいだよ。俺は、ずっとこうだ」 恋次の声が沈んで、自虐的な色を帯びた。その声があまりにもいじけていて情けなくて、頭にカッと血が上る。 「何言ってるのよ、恋次、強くなりたいって言ってたじゃない。隊長を超えてはじめて、ルキアちゃんに顔を合わせられるんだって、ルキアちゃんの為に強くなるんだって、そう言ってたじゃない」 その決意を語った時の恋次の横顔がとても凛々しくて、あたしはつい見とれてしまったのに。 わけもなく胸を刺す鋭い痛みに戸惑いながら、その力強い在り方に憧れたのに。 「そのルキアちゃんに向き合おうとしないなら、今の恋次が隊長に勝てるわけないわよっ!」 感情の迸るまま、叩きつけたあたしの言葉に、恋次の表情が強ばったと思った次の瞬間、体がはじき飛ばされた。 「!?」 何が起きたのか理解出来ず、硬直したあたしに、恋次の怒声が降りかかる。 「うるせぇ! 俺の事なんか放っておけよ!!」 ズキン。 一瞬、息が詰まるほどの痛みが胸に走る。咄嗟に開いた口は、だけどわななくばかりで何も言葉を発する事が出来ない。 「……く、そっ!」 恋次はあたしと視線を合わせた途端、苦しそうに顔を歪めて、踵を返した。足早に遠ざかっていく広い背中を呆然と見送って、あたしはふっと視線を落とす。 力任せに払われた手は赤く腫れ、じわじわと痛みを訴えはじめていた。 * * *
(きっと、恋次にあんな事したから)体が熱くて、冷たい。滴る血が、止まらない。視界が暗く、狭くなる。首を圧迫されて息が出来なくて、意識が近くなったり遠くなったりする。赤くぬめる手から刀の柄が滑り、地面に落ちる音が遠くに聞こえる。 (だから、バチが当たったんだ) * * *
巡回の支度を終えた頃には、もう夕方になっていた。隊舎を出て、赤く染まった空を見上げると、わけもなく胸をしめつけられて、憂鬱な気分になってしまう。あたしはいつからか、この色に覆われる空が、苦手になっていた。自分でもどうしてか分からない、紅の空と沈みゆく太陽を見つめていられずに、目を背けてしまう。やるせなさに胸をふさがれて、無意識にため息が漏れた。 (……仕事、しなきゃ) 意味の分からない感傷に振り回されてる場合じゃない。あたしはぶんぶん首を振って、歩き出す。 歩を進めながら、腰にさした斬魄刀に手を置くと、ざわついた心が少し落ち着く気がして、一人で苦笑してしまった。 死神にとって斬魄刀は自分の相棒、分身のような存在だから落ち着くのは当然だけど、あたしだって仮にも女なんだから、もうちょっと可愛らしいものを手元におけばいいのに、と思わないでもない。 (まぁ仕方ないか。この気性だから、ここにいるようなものだし) あたしはいつでもどんな時でも、強い自分でありたいと思う。戦いの中にあって、もっと、もっと強くなりたいと願っている。 だから、恋次や朽木隊長はあたしの目標であり、羨望の対象でもあった。 恋次。 名前を思い浮かべた途端、足の運びが鈍る。最後に見た怒ったような、泣きだしそうな顔が思い出されて、胸が痛む。 恋次が日々どれだけ鍛錬を積み、どれだけ強くなりたいと願っているか、知ってるのに。あんな事言うつもりなかったのに。喉に物が詰まったような自己嫌悪を覚えて、あたしは顔をしかめた。 いくら恋次の態度がふがいないからって、あそこまで言う必要はなかった。喧嘩別れしたわけじゃなくて、二人とも人に気を遣いすぎる性格だから、そう簡単に歩み寄れないんだろう。 事は恋次とルキアちゃんの問題で、赤の他人のあたしが簡単に口出し出来るような事じゃないんだ。 (……謝ろう) あんな喧嘩をしては、いつまた顔を合わせられるか疑問だけれど、とにかく恋次に会ったら謝ろう。 そう決意して角を曲がった時、つま先に細長い影が触れた。何気なく顔をあげて、あたしはどきり、と震える。 道の手前、引き延ばされた影の先には、夕日を背負った恋次がいた。こっちに気がつくと、避けるように顔を俯かせる。けど、すぐ思い切ったように顎をあげて、恋次はずんずん近づいてきた。こっちがたじろぐ程の勢いで前に立ち、そして、 「すまねぇ!」 ガバッと頭を下げる。 「……へ?」 いきなりの遭遇に面食らっていたあたしは、恋次の言葉が理解できず、変な声を漏らした。腰を曲げたまま、恋次が言う。 「さっき怒鳴りつけちまって、すまなかった。には何の非もねぇ、俺が悪かったんだ」 「あ……あ、あぁ」 ようやく頭が追いついて、あたしは人形みたいにぎくしゃく頷いた。謝らなきゃと思うのに、先手を打たれたせいか、言葉が出てこない。 「あの、恋次」 「……お前の言う通りだよ。俺はあいつから逃げてるんだ」 どうにかして声を発したあたしに、体をまっすぐに戻した恋次が笑った。痛みをこらえるような顔で。 「……わかってんだ、このままじゃ駄目だってことは。頭では、わかってんだけどよ」 それでもすぐ向き合えないのは、恋次にとってそれだけ、ルキアちゃんが大切な人だからだ。そう思った時、ぎゅ、と胸に重石が乗ったような息苦しさを感じた。 苦しい。恋次がルキアちゃんとまた仲良くなれればいい、心底からそう思うのに、思えば思うほど体が冷たくなっていく。 「」 恋次がこっちを見てあたしの名を呼ぶ、それだけで体が震える。 「……? おいどうした? 顔色悪いぞ」 あたしの様子がおかしい事に気づいて、恋次が一歩、近づいた。思わず後ずさった時、腕に痛みが走ってつい庇ってしまう。それを見とがめた恋次は、ばつが悪そうな顔になった。 「腕、痛むのか? そこ、さっき俺が叩いちまったところだよな」 「へ、平気よ」 「平気じゃねぇだろ、全然。ちょっと見せてみろ」 そういって、骨張った大きな手を差し出してくる。この手に触れたら、自分はもっとおかしくなる。そんな恐れを抱いて恋次を見上げたあたしは、不意をつかれて息を止めた。 赤に染め抜かれた空。地平線に向けて傾いた太陽が、その名残を惜しみ、恋次の肩越しから光の矢を投げかけてくる。その光にとけ込むように赤い髪が、揺れた。 (あ) その時になってあたしはやっと、気がついた。 「?」 こちらを見返してくる恋次。黒一色の死覇装なのに、その姿は鮮烈で、目が離せなくて。 (そうか) 激しやすく、どこまでもまっすぐであろうとする心の有り様を示すように、鮮やかな紅の髪は。 (だから、あたしは) この空と同じ色をしているから。 「恋次」 どうした、と訝しげに問いかける恋次に手を伸ばす。 さしのべられた手のひらを通り過ぎて、死覇装の襟を掴んで。 (眩しすぎて、見ていられないんだ) あたしは恋次を引き寄せ、ぐん、と近づいたその口元に、唇を押しつけた。
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